施設からのニュース

あかぼこ山

2009.08.15
あかぼこ山 49号

残暑お見舞い申し上げます。

1.私の8月15日

  先日、「あかぼこ山」の編集の会議でバックナンバーの記事が話題となりました。「あかぼこ山 第9号」(1995年8月)で取り上げました「私と戦後50年」という記事です。内容は当施設に入居されていた方から直接お伺いした「戦争の記憶」が綴られたものです。直接戦争体験をされた方々も、当時青年であれば現在80~90歳代。残念ながら年ごとに少なくなっていっている今だからこそ、14年前の記事とはいえども当時を体験された方々の生の声をお届けする価値は十分にあるのでは。今回は「私の8月15日」と題して、「あかぼこ山第9号」から、そのいくつかを再掲させて頂きます。

「東京焼け野原の記憶」 T.Yさん(男性)

1)東京焼け野原の記憶

 強烈な印象は昭和20年3月10日の東京大空襲であろう。9日夜消灯ラッパのあと、私は公用腕章を巻いて営門を出た。千葉駅から省線電車で東京に向かったとき、錦糸堀駅で空襲警報のため下車させられた。近くの公園で解除を待っていると、探照燈が暗空を交差している。やがて両国方面から前方に火の手が上がり、見る間に大火災になった。実は私の立っていた場所は、それ以前の攻撃で消失した亀戸方面を背にしていた為、恐怖心は全く無かった。夜が白む頃、歩き出して、未だ火の収まっていない神田、大塚辻町から池袋へと向かうと、駅は無人で電車は出ていなかった。致し方なく焼け跡を千葉方面に向かうトラックに便乗させてもらって、数回乗り継ぎをして隊に帰った。東京大空襲をはじめから終わりまで詳細を見極めた一人である。最も哀れな姿は、前記の亀戸方面の被災者たちであろう。私は死体を運んできて積み上げたのかとはじめは思った。だが、きちんと身繕いをした婦人の脇から馬の首が突出していたので、煙に巻かれてここに逃れて集まった人達の最期とわかった。胸の高さまで垂れ下がった市内電車の架線から、焼け落ちた家屋の下から、死体から無残さが見られた。

2)戦後の糧秣不足

 当時の私の住まいは都下の田無町であった。付近は農家が多かったが、産物はウド、牛蒡、人参などで米は少なく、自家用陸稲が主で、小作農家は食糧配給を受ける始末。わずかのバターやチリコン缶の配給に叺(かます)を持ってきた農婆には驚かされた。芋は「沖縄」と云う子供の枕ほどもあって不味いものしかなく、私は川越街道を越えた志木まで自転車で買出しに行った。米は買えなく、ついには遠く山形まで買出しに行ったが、県境の取締りが厳しく困難した。買出し先を茨城、埼玉、千葉に求める中で、米農家にもブローカーがいることを知った。

3)衣料切符と縮緬オムツ

 昭和20年生まれの4男のおむつに苦労し、長襦袢の解き布をおむつにしたり、闇のドライミルクの入手に悩んだりしていた母親の姿、社会勝手気まま、民主教育に喜ぶ人、困惑する人々を挙げればきりが無い。修身の教本や内務省の廃止、円封鎖貼付する切符綴の配布など、終戦に伴う変動は激しく世情を動揺させた。

「あれから50年」 S.Mさん(女性)

 中野弥生町に住んでいた父は運送屋で、両親と兄弟姉妹9人で楽しく暮していた。戦時中は勤労奉仕で中野の軍需工場で軍服を縫っていました。生産、増産と言って尻を叩かれ、裁縫に明け暮れた青春でした。配給だけでの食物では足りず、栄養失調になるので、長女の私は母親と一緒に買出しに行ったりしましたが、とにかく食べることだけで精一杯、楽しく恋をすることなど考えてもみなかったのです。辺りは灯火管制で真っ暗闇、空からはB29の空襲と爆弾や焼夷弾の雨、あの青白い光と防空壕に逃げ込んだ恐怖は今も忘れられません。思い出しただけでもぞっとします。弟は海軍の衛生兵に志願して出征し、とうとう帰らぬ人となってしまいました。でも、あの頃は国民全体が戦争に勝つ為に、国を思い、我慢して強く生きていたと思います。しかし思ってもいなかった敗戦には、皆「なぜなんだ!」と泣きました。終戦の8月15日は特に暑い日でした。東京は焼け野原、燃えくずの山でした。焼けトタンを集めてバラックを建て、雨風を凌ぎながら、「国の関係でこうなったのだ。」と思い、「何のいきさつで戦争が始まったのか?」と、まだ若かったので疑問を抱くこともありました。

 それから結婚、子育て、今度は飢餓との戦いが続きました。食糧難での戦後のあの辛さは直面した者でないとわからないでしょう。買出しにも懸命に走り回りましたが、なかなかすんなり買うことも出来なかったものですよ。買出しから帰る途中、おまわりさんにお米を取られ、残念でとても悔しい思いをしました。終戦直後は全てが混乱していて、まさに「戦後の混乱期」でした。今から思えば、よくあんな中で生きてこられたものだと思います。今の若い人達のような青春時代は、私たちの世代では戦争に奪われてしまったようなものですが、生きることに必死になったということでは確かに一つの青春だったのかもしれません。当時を生きたものとして戦争はもうこりごりです。二度と嫌です。今の平和が続くよう心から祈ります。

2.施設の風景 

1)夏の交流会

  7月5日(日)に、恒例の「夏の交流会」が行われました。1階では玄関前に「お祭りひろば」、会議室に「作品展」を、2階食堂には「ビアホール」を設けて、ご家族や施設近隣の皆様をお迎えいたしました。

  「お祭りひろば」ではヤキソバやフランクフルトなどの模擬店、射的やスーパーボールすくいなどの的屋に、たくさんの小学生やご家族連れに集まって頂きました。普段は介護の仕事に汗を流す職員も、この日ばかりは甚平にハチマキ姿ですっかり「的屋のオヤジ」です。「作品展」ではクラブ活動などでお年寄りが作った作品や、日常風景の写真展示で、お年寄りの生活の様子をお伝えさせて頂きました。

 2階のビアホールでは、厨房職員が腕をふるって作りましたバイキング料理をはさんで、普段のご面会とは違った雰囲気でのひと時を過ごして頂きました。ほかのご家族とふれあいを持つ機会にもなっていて、それを楽しみにしている方々もいらっしゃいます。メイン料理は今年もじっくり時間をかけて作ったローストポーク。それを背の高い白い帽子姿のシェフ(?)がその場で切り分けてのソースサービス。鮮やかな手つきも味付けの一つです。職員一同、早速次回に向けて今から知恵を絞っておりますので、来年もぜひお越し下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

 

3.お知らせ 

1)在宅介護教室

 日時 9月26日(土) 午後1:30~3:00 於)当施設  (東青梅駅南口より午後1:10送迎車があります。)

 内容 「認知症高齢者の介護」~介護事故防止  参加費 無料   お問い合わせ 当施設(小嶋・比留間・岡部まで)

2)タオルの寄付のお願い

  当施設では、排泄介護作業の際の清拭布に、古いタオルを専用おしぼり機で加熱殺菌して使用しています。使用後は洗浄・次亜塩素酸で消毒して繰り返し再利用しています。ですが、8割の方が排泄介助が必要な為に使用頻度が高いのと、その都度次亜塩素酸で消毒を行うため痛みが早く、いくらあっても不足しがちになります。つきましてはご家庭にございます使い古しのタオル・バスタオル・タオルケットなどで、「あげてもいいですよ。」というものがございましたら、ぜひご一報下さい。差し支えなければお伺いさせて頂きます。宜しくお願い申し上げます。

 

4.情報公開
 
平成20年度の社会福祉法人長渕福祉会法人財務諸表、特別養護老人ホームカントリービラ青梅収支決算報告書は以下の通りです。

1)平成20年度法人財務諸表

資産の部

負債の部

流動資産

702,828,317

流動負債

64,625,540

固定資産

2,796,418,553

固定負債

267,767,518

 

 

純資産の部

 

 

基本金

520,266,120

 

 

国庫補助金等特別積立金

1,063,729,168

 

 

その他積立金

874,302,981

 

 

次期繰越活動収支差額

708,555,543

資産の部合計

3,499,246,870

負債及び純資産合計

3,499,246,870

2)平成20年度カントリービラ青梅収支決算報告書

 ① 資金収支計算書(自:平成20年4月1日~至:平成21年3月31日)

収入の部

支出の部

経常活動収入

413,358,203

経常活動支出

353,526,439

施設整備等収入

施設整備等支出

1,262,610

財務活動等収入

財務活動等支出

35,000,000

 

 

当期資金収支差額

23,569,154

収入の部合計

413,358,203

支出の部合計

413,358,203

 ② 事業活動収支計算書(自:平成20年4月1日~至:平成21年3月31日)

収入の部

支出の部

事業活動収入

413,944,777

事業活動支出

366,780,541

事業活動外収入

2,941,489

事業活動外支出

特別収入

特別支出

24,782

 

 

当期活動収支差額

50,080,943

収入の部

416,886,266

支出の部

416,886,266



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